↑ 燃料補給を行う様子であるが、F-1は使用燃料が、当時米空軍やNATO諸国が主に使っていた”JP-4”であった。JP-4は、ガソリンと灯油が1:1で調合された燃料で、揮発性も高い為、取扱いに注意が必要だが、西側諸国の多くが主に使った燃料だったので、有事の際は融通し合う事が出来た。
3rd Squadron
Pege-4
1983年に3sq/8sq共に、新しい絵柄の飛行隊マークを尾翼に書き込む事になる。兜武者も黒豹も何となく漫画チックなデザインに見えたが、この時期嘉手納のF-15C/Dも尾翼に”Shougun"と由来する兜武者の絵柄を入れ始めたので、どうしても比較してしまったのである。米軍の兜武者は江戸時代の浮世絵を連想させる古典的な兜武者だったが、空自の方はより現代風(?)であるように思えた。
この頃の極東情勢は、「強いアメリカ」を目指すレーガン大統領による大幅な軍事拡大でB-1爆撃機の予算復活や海軍600隻構想などでソ連軍に圧力を掛ける一方、ソ連軍も戦略原潜基地の在る極東の海軍力、空軍力を強化していた。垂直離着陸機を搭載したキエフ級大型航空巡洋艦も太平洋に進出、本国では次世代戦闘機の開発が進み、偵察衛星によって捉えられた試作機は後のMig-29であった。航空自衛隊も既にF-15の最初の飛行隊202Sqが2月に動き出し、第4世代のへの第一歩を踏み出した。
↑ 1983年6月小松で開催されたACM(航空総隊総合戦技競技会)での、特別塗装。初めてF-1戦闘機にシャークティースを書きいれ、注目を浴びたマーキングであった。259号機の訓練用ディスペンサーCBLS-200にも鮫口が描かれ、面白い。220ガロン燃料タンクには、3年連続優勝を祈願したペイントがなされたが、残念ながら1983年の優勝は第8飛行隊に輝いた。
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↑ 1983年9月 三沢基地のエプロンに駐機する第3飛行隊のF-1/213号機/225号機。整備作業や点検、パイロットの乗降に使われる梯子や脚立は、様々なタイプのものが存在した。
↑ この年に見られた各飛行隊の整備員達の帽子は、飛行隊のカラーで統一していた。赤い帽子は第3飛行隊のカラーである。第8飛行隊は、黒地に黄色のアクセントの入ったものを着用。
↑ エプロンに並んだ新マークのF-1各機(213/229/207/223)。グリーン系の迷彩には良く似合うマークである。F-86時代に尾翼に赤いラインを入れていたが、第3飛行隊にはスコードロンカラ―の赤色が冴える。
↑ 1983年9月 飛行を終えてエプロンに戻る第3飛行隊のF-1/207号機。当時の航空自衛隊にとって地上攻撃や艦船攻撃が可能な貴重な存在だったが、唯一問題だったのは、エンジンの出力不足。アドーア・エンジンは、アフターバーナーを焚いても、2基で推力6.6トンしかない。これはF-16CのF-110エンジン1基の半分に満たない。これでマッハ1.6の戦闘機を目指したので、翼面積は当然小さくなる。写真ではエンジンノズル脇の空気取り入れ口が開いているが、アドーア・エンジンは、コンプレッサー・ストールを起こしやすと言われたので、それを防止するための空気補助取り込み口である。
↑ 三沢基地R/W-10に着陸後、タキシーウェイで駐機エリアに戻るF-1/213号機
↑ 1983年9月に披露されたF-1とT-33による第3航空団の合同編隊。F-1戦闘機 2個飛行隊が配備されていた三沢基地では、F-1戦闘機だけでも10機編隊~16機編隊での上空通過デモ飛行は一般的となっていた。